遊んでばかりいるおまえがこんなにも頑張っているおれより「できる」と評価されるのは好ましくない、という話

前口上

遊んでばかりだとか頑張ってるかどうかとかいうのはあなたの主観に過ぎないので、そんなのを基準に語られても困るわけだけど。

与太話。

「出席を取らないのは、ずるいと思います」

大学で出席しないのは「ずるい」? - FreeBSDいちゃらぶ日記

ここ3,4年で急に出席重視に移行しだしたうちの大学。学生はもちろん教員の間でも否定派が多く、一般教養科目では(教務がやかましいので)出席採るけど専門課程では採らないよ、という人が多い。採っても基本的には期末試験・レポート重視で出席点は多少加味する程度、という場合がほとんど。

というか、そもそも講義に出てれば全部が全部頭に入ってくる、というできた頭を持っているわけじゃないし、それ以上に業績は世界クラスでも講義が壊滅的に下手*1という教員がわんさかいる現状では、そこに90分縛り付けられて結局睡魔に襲われてしまうよりは、他にやることやってた方が有意義、という判断があってもおかしくないと思うんだ。

別にその「やること」が何であれ、どちらが有意義であるかという価値判断も含め、結局は自分自身の判断の結果であって、その結果はダイレクトに自分に跳ね返ってくるだけの話なので、学費を出してもらっている親や親戚はともかく、周囲からとやかく言われても*2どうしようもないと思うんだよな。

というか、うちの大学だけかもしれないけど成績評価って本当に適当で、同じ第二外国語の授業でもオーラルとノンオーラルのクラスで同じような内容を同じような判定基準でやっているはずなのに、一方では優、もう一方では可、とかいうことが茶飯事。面白い授業だったので真面目に出てノートもきっちりとって、いざ試験に臨んで会心のできだと思ったのが不可判定食らったり、初回の講義だけ出て適当に試験だけ受けて帰ったら良だったりと、あまりの一貫性のなさに成績評価に不信感を抱いているのは私だけじゃないはず。

まぁ教員の側でどういう基準で成績判定してるのかが学生の側から見えない以上、一番その基準として見えやすくわかりやすい「出席点」というところに基準が落ち着くのも解らなくはないけれど、それはそれでなんだかなぁというか。試験的に、各期終了後の成績発表時に、判定に納得のいかない講義科目については問い合わせができるという制度も取り入れられてはいるけれど、実際のところ自分で自分の解答を採点できる訳じゃないので、「できたと思ってたのに不可だった」というような場合くらいにしか使えない。

というか

読んでて

自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。君が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準なんだ。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習

を思い出した。

雑感

あと、なんというか規則守ってる俺かっけーというか、苦行に耐えて授業に出てる俺sugeeeeeじゃなくて、「自分の本職なんだから100%それに充てるべき、そうじゃないのは遊び」というような意識が蔓延してるのかなぁ。よく言えば職人気質的な、悪くいえばくそ真面目というか。理系の実験系だという理由もあるのかもしれないけど。

確かに大学生の本分は勉強なんだけど、別に専門以外のことを趣味でも何でもやったっていいじゃない、と思うんだけどなぁ。部活動に打ち込んだって、趣味に走ったって。青春?恋愛?いいじゃないですか。社会人になったらまた別だろうけど、学生の間くらい自分の時間をどう使ってもやることやってれば別にいいんじゃないのか。個人的には情報系学科はおろか工学部所属じゃないのに geek だと言われることが多いのですが、なんで情報系に行かなかったの、なんでこんな分野にいるの、という質問をよく受ける。純粋に疑問として発してくれている場合は別にいいんだけど、明らかに(おまえ専門と全然関係ないことしてるよね、おかしくね?)的なニュアンスを含む返しをされることがしばしばあって、穿ちすぎかもしれないけどそれはそれでつまらなさすぎないのかなぁとか思ってしまう私はまだまだ幼稚だということですかね。

*1:中学高校と比較して、の話。いつの間にか自分の研究紹介になってるとかもしばしば。

*2:あまりに出て無くて心配されたとかは別として