ほぼ、almost

過日、親戚と話をしていたときに、よくある「コラーゲンでお肌プリプリ」はどうなのかという話になりました。

もちろん、そんなわけねーよと説明したものの、説明の途中、ついついいつもの癖で「吸収されてそのまま肌に直行することはほとんどない」と言ってしまったのだけど、どうやら相手さんは「ほとんどない」というのを8割程度の可能性と受け取っていたらしく、逆に考えれば2割程度効くんなら飲んだ方が良いんじゃね?という受け止め方をしていたようでした。

実験生物系に限った世界しか知らないので狭い話だけども、この界隈に身を置く多くの人の間で、「ほとんど」というのは十中八九どころか九割九分あり得ない、せいぜい例外程度の確率で起こるものだというニュアンスで受け止められることが多いんじゃないかと思います。

これは、生物系、それも純粋系じゃない複雑系では何が起こるか分からない、つまり例外を常に担保しておかねばならないということから「ほとんど」という語が選ばれているのだと思うんだけど、ニュアンスとしては非常に強い否定を含んでるわけで。

ところが、世間一般的には「ほとんど」というのは高々8〜9割程度のことを指し示すことが多く、よくよく考えると自身も日常会話ではそういうニュアンスで使うことが多くて、逆に言えばほとんど無い、といったところで1, 2割程度の可能性が残っちゃうわけで。もうこの時点で、一般的な聴取者が受け止める内容は、上述の生物学的な意図を持って話をしている話者の意図とはズレてしまい、意思疎通が取れていないことになってしまう、と。

なんでこんなことを書いてるのかというと、昨年末の事業仕分け以来、「市民に開かれた科学」などという大層なお題目が掲げられることが多くなりましたが、そもそも同じ日本語を使っていると思っていても、ベースにあるニュアンスや感覚が全く違うために誤解、あるいは正確な意思疎通の妨げとなる、という状況は十分に起こり得るわけで、さらに質が悪いのがなまじ日常単語の一種だったりするために、誤解が起こっていると認識される可能性が非常に低くなってしまうという点で、もうこればかりはどうしようもないんじゃないかと思います。

また、それを受けてかどうかはわかりませんが、素人にもわかりやすいように簡単に説明するべきだという論調を時折見かけますが、わざわざ煙に巻きたがるような人は少数であり、むしろそんなに簡単に説明できる銀の弾丸があるのなら、その分野での専門家とされる博士の認定を受けるためにわざわざ5年、 10年近く余分に高等教育を受ける必要はないわけで、なんだかなぁという気になります。

今年のノーベル化学賞は日本人受賞者だったということもあり、再び事業仕分けや「元気な日本復活特別枠」の話が盛り上がっていますが、改めて、事業仕分け時に課題とされたネタを思い返してみるのもいいかもしれません。